手を伸ばす前のまわり道

うつ病のこと、猫のこと、大好きな音楽のことの雑記です。

3・11

3・11

私は海辺の町に勤務していた。

奇しくも初めてのうつ病から復帰してわずか2日後。

今思えば未だ極期の最中とも言える体調で、復職は早すぎた。

14時46分。

揺れ始めてから程なくして明らかに異常だという判断で建物の外に出た。

頭の中は至って冷静であったつもりだが、寒さを感じなかった。

 

古い建物は今にも崩れ落ちそう、天井が崩れコンクリート片がボロボロ落ちてくる。道幅は人が二人ギリギリすれ違えるくらい。樹木はクッションになるだろうか、凶器になるだろうか。だが窓ガラスが降ってくる恐れがある。

その場に立ち尽くす人に頭を保護してしゃがむよう指示したが、建物の中に入るよう指示した人もいた。今も正解はわからない。

落ち着くよう、敢えて走らせずに整列し、点呼をした。

海辺の町なので訓練通り住民は慣れたもの。

すぐに引き渡しに来る大人たちがいた。

 

宮城県沖地震」を経験した年代の人に聞いてみた。

「これが宮城県沖ですか?」

答えは「こんなものではないよ。」どう言う意味だったのかは今も聞けないまま。

 

ポケットに入っていた水性赤ペンと何かの書類の裏に引き渡した人の名前を書いたが、降る雪で字が滲み、すぐに使い物にならなくなった。

半数近く引き渡したろうか?三分の一くらいか?

今まで聞いたことのない轟音がした。地が揺れた。

町が黒い渦に飲み込まれていった。黒い渦は廻る。家が、道が、木々が、黒く覆われくるくる回る。

津波だ。

現実味はまるでなかった。だが、初めて自分の足が震えているのに気付いた。

 

「なぜ引き渡した。」

 

近くの火力発電所が爆発した。煙突が折れて炎が吹き出す。止まない爆発音。

「家にお母さんがいる」、「じいちゃんがいる。」泣き出す人たち。

「今は泣くな、大丈夫だから。泣いてはだめだ」集団パニックを防ぐため、だが、

何が大丈夫なものか。

今でも思う。

何が大丈夫なものか。

 

その後の記憶は、途切れ途切れである。

多くの人が言う、満点の星空を私も見た。数時間交通整理していたから。

ただ、繰り返す爆発音と炎とともに、透き通った星空を。

 

8年という時間もあるだろうが、私の記憶に何かが強制的に蓋をした。

 

あの時、忘れてはいけないと思って書いていたブログは今はない。

 

あの時、個々がそれぞれの場所で見たもの。

 

あの時、苦しんで亡くなっていった人たち。

 

誰かのために走り回って死んでしまった人たち。

 

希死念慮すらあったのになぜなのか生きてしまった私。

 

「復興」とか、「前へ」とか、そう言う言葉で埋められないもの。

 

時は流れた。

 

あの時小学校六年生だった子供は今年成人式だ。

私は言いたい。忘れていいから。背負わないでいいから。

 

でも、敢えて辛い気持ちを引き出す授業をなさっている先生の実践を見て、真似できないなと思ったこともあった。

とどのつまりが、私自身がまだ向き合えていないんだろう。弱いものだ。

 

宮城県沖」や「チリ地震津波」で無事だった高台に設けられていた避難所まで津波が来て、多くのお年寄りが跡形もなく流された。

自家用車で避難中津波に巻き込まれ、車ごとゴロゴロ転がったが電信柱に引っかかった。でも、窓からおばあちゃんだけ流された。手を握っていられなかった。

電線に人がぶら下がっていた。

物置に、大量の瓦礫と一緒に人が流れてきた。みんなで毛布を持ってきて温めたけど、亡くなってしまった。

津波で流された人が見つかったんだけど、喉まで砂が入っていた。

 

みんな、子供達から聞いた話だ。

 

そんなものを見てしまったのか。

私にさえ、ずっと黒と灰色の景色しか見えなかったのに。

 

他にも、土葬せざるを得なかったご遺体を、掘り起こして火葬するという、壮絶な、大切な仕事を成し遂げた地元の葬儀社の社長が書いた本も読んだ。

 

やっぱり思う私は失格だろうか。

忘れていい、背負わなくていい、進んでいい。

 

人の強さを知った。弱さも知った。狡さも知った。格差も知った。優しさも知った。

あの時、人は総じて笑顔を浮かべて会話をした。

それを見てある評論家がテレビで言ったことを覚えている。

東北の人は自己主張しない。笑顔で濁す。いかにも日本人的だ。

バカタレが。

あの時は、一人一人が、笑顔で関わりをもつ事で自分を保っていたのだ。

後にも先にも、道ですれ違った人と「大丈夫ですか、ご飯ありますか」なんて会話をしたのは初めてだ。

何日経ってからかはわからないが、家に帰ることを許され、帰ったらドアに付箋が貼ってあった。管理会社から。

「ご無事ですか。怪我はありませんか。今の状況を教えてください。」

「無事です。今帰宅しました。明日は仕事に行ってきます。」とメモしたら、翌日「気をつけて、無理しないで」との返信が。

 

醤油差しとごま油、観葉植物各種とテレビが吹っ飛び、部屋は中華料理の匂い。。。

床に散らばる本。大型本の破壊力はなめてはいけない。

土と水類から何とかすべく、土足で割れた鉢やガラスを踏みつつ片付けを続け、テレビ繋いだらこれ。

https://www.instagram.com/p/0EsyxppbJo/

 

【結論】液晶の中央が割れたテレビは、テレビとしての役割は果たせない。

 

ここも格差なんだけどね、仙台市中心部で普通にテレビは買い換えられたんだよ。

あの時、久しぶりに温かい親子丼を食べてびっくりした。

そして、黒煙をあげる町へ車を走らせる。

逃げてくる車両を見送りながら。

 

そのわずか4ヶ月後、私は精神科病院の急性期病棟に入ったんだけどね。